さて、私は合気を証明したのだろうか。

ともかく、今の時点でそれを否定するような矛盾はまだみつからない。といっても矛盾を探すという、その弱い心が狭い。信じたのなら、信じ切って突き進むべきなのだ、進んだうえでなにか、もし何かがおかしければ、それは、違和感となって必ず何か語りかけてくれるはずだ。問題はその違和感を受け入れる、受け止める、真正面から向かい合う、「うつわ」が私にあるかどうかだ。恋は盲目、人が自分の考えに恋するがあまり、何でも良いほうに解釈してしまいがちだが、行過ぎるとストーカーだ。

今、誓おう、もし違和感が現れたときには、決して目を背けないことを。そしてその違和感が確信となったなら受け入れよう、すべてが間違っていたと、そしてまた、まったくのゼロから再スタートをすることを。

何より、これまでずっとそうであった。というより、これまで間違いを認めることで、私は成長してきたのだ、失敗を最高の師としてきたから、ここまでこれたのだ。

思い返せば、これまでの失敗には最高の師達にまぎれて、いくつか、まったく無駄な失敗もあった。少なくとも今の私はそういった無駄な回り道を避けるコツを提案することができる、それは、おおむね次のようなものがある。

まず、稽古で捕り、受けをはっきり役割分担することだ。圧倒的に有利なのは受けなのだ。なぜなら今からどの技を繰り出すか事前に知られている、後方に倒す技なら、受けは捕りがどうするかを事前に知っている。小手返しなら、受けは捕りが自分の小手を極めにくることを知っている。わざと倒れろ、それは稽古だからと効いていない技に倒れてあげる必要はまったくない。しかし、相手の手の内を知っているからといって、その裏をかく必要はまったくない。正々堂々と稽古の範囲で抵抗しようではないか。捕りの後ろへの技に受けが前方に傾き体重を浴びせるような行為は、受けの未熟さを示しているだけなのだ。捕りが何でもありなら、ちょっとかわしてやれば受けは崩され虚となる。かといってそれを捕りがやってしまっては、そもそも技の稽古にならない。小手返しされないために、ゲンコツに固く握りしめてしまっていては、それは小手返しではあり得ない。

負けず嫌い大いに結構、圧倒的な有利な条件下でやられまいとするのではなく、、倒されたら倒し返せばいいじゃないか、そこに努力を注ぐんだ。それであれば条件は同じだし、進歩する方向に向いているのだから。

次に、合気を、いや、今の段階では私が証明した、私が合気と信じるものをほかの誰かが見つけうるには、やはり座りの上げ手がもっとも可能性が高い、そこで、そこに至るもっとも可能性のあるルールをここで示してしまおう。ちょっとした対戦ゲーム感覚で。

  1. 捕りは受けが小手をしっかり握った状態から、自分の手(相手の手ではないことに注意)を相手のアゴの高さまで手をまっすぐ上げる、受けはそれを握った手で押えて阻止する、何のことはない、ただそれだけだ。
  2. 捕りの手が受けのアゴ付近に到達すれば捕りの勝ち、もし途中で止められれば受けの勝ちとする。
  3. そしてその間、たとえ相手の手が解けようが、切れようがは評価しないこと。あくまでも捕りが“自分の”手を上げることができればよし、受けの押えが途中で切れようが、解けようがまったく関係なく捕りの勝利。
  4. 捕りも受けを倒す必要はないが、受けが捕りの手をとり倒してしまうような行為は論外、受けは自分のアゴ付近まで進んでくる相手の手を握り押さえ込み阻止するに徹する。

天才でもない限り、集団の力は個の力を凌駕するのです。捕りの稽古になる上げ手をしてみて下さい。出る杭を打とうとするのは哀しいかな、日本人の好まざる「狭〜い」習性なのです。せっかくの仲間のはずなのに。

瓢漂会