ファイト武録

月下
聖杯伝説 宝物み〜つけた! Since 2005
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タグ:読書

今、大注目のマインドフルネス。単純にマインドフルネス=瞑想と思っていましたが、必ずしもそうである必要もないようです。瞑想に期待できるメソッドを生活に取り入れよう、出家するまでもなく日常に実践していこう。

わたしも瞑想は大好きです。短い時間でもいいから、本来は毎日続けることが大切なのですが、ついつい睡眠時間の確保を優先してしまいます。

昔、寝つきが悪い時期があって、そのときは寝る前に毎晩時間をとっていました。すると寝入りも良くなるしで、その効果は体験済みです。

米国などでブームなのは、その国民性とのギャップの大きさにあるかも、と思います。自己主張を良しとする文化は、静かに耳を傾けろというのは正反対。落差が大きい分、比例して効果も大きく実感できるかもしれません。

元々、控えめ、わびさび、沈黙は金、武士道といった文化の日本人にとってはマインドフルネスの多くをすでに取り入れています。

小説以外で感動を受ける本というのは、滅多に出会うことがありません。そんな稀な本でした。

おまけに寅さんも。

今読みかけの本はニーチェのツァラトゥストラの入門書といったところだ。

文章や、ときにはシャベリがが哲学的とは良く言われるものの、読むとなると哲学は難解で、憧れつつも、いつも中途半端で終わってしまいます。

読んでいて、この本、昔読んだ覚えがありました。記憶からはどこかに置き去られてしまっていましたが、昔読んだ時も、そうですそうです、とても良かった感想を持った記憶です。その一時一句が遠いその感覚を呼び起こしてくれるようで、ついつい夢中になっています。

それはなんとニーチェが今の世の中を語っているようなのです。それはある意味、仏教的で、さらにその次って感じ。

とても面白いから、実本にも挑戦したくなりました。

毎朝のロードワークはおよそ、20年続けた。

武道を始めて汚れた入れ知恵をまともに信じて、走るのをやめてしまった。信じた自分がいけないのであって決して偉そうに語った人達に恨みはまったくありません。

今、もし許されるなら、また朝走る生活を取り戻したい、すぐには出来ないけれど、なんとかこの小さな夢を叶える日を迎えたい。

走ることについて衝撃受けて、この夏の足元はすっかりサンダルで過ごした、ワラーチとはいかないまでも。色々気づくこともあったし、後日またあらためて書きたい。

インスパイアされた本に中心的役割で登場するランナーの本を、とても楽しく読んだ。ちょうど食生活も気にし始めていたところだった。


本を閉じて外へ出よ、とよく聞く。
(今なら、スマホのスイッチを切って〜、と言ったほうが良いかな)

自分の狭い世界に閉じこもって、本を読んで知識を得る、学ぶより、実戦へ飛び出して外で見る情報、出会う人から広く、気づき、盗み、学ぶのが良いと教えているのです。

いっぽう、読書家は友を得ることができた、師に会えた、とも。

読書を薦めるのは、短い人生、個人で経験できることは限られているから、先人の著書を通して疑似体験することにより学べよと教えているのだと思う。

もちろん、これはバランスの問題だからどちらかに極端になる必要はまったくない。

自分としてはかなり後者よりだと思う、99対1の法則でも書いたのですが、実戦で人に会うといっても、これは!と思う人に出会う機会は100人に一人どころか、もっともっと少ないと実感する。それは、私の狭い人間関係のせいだろう、と言われれば、それはまったくその通りだろうし。どんな人にも学ぶべきところは一つくらいあるだとか、反面教師と言ってもねぇ。

おそらく1%の人の周りには他にも1%の人が多くいるのだろうし、99%に属する普通の人々の周りには、やはり99%のグループであって、1%の人に会うなんて奇跡なのではないかと思う。

それで1%の人が書いた本を探しているのかも知れない。

それに、外へ出れば腹立たしいことや、イライラさせられることが多いし。

静かに読書しているのが、私にはよっぽど心地よい。

読書は私の趣味のひとつ、と思っています。昨日イライラ気分のなか電車で読書に集中できず。ここで疑問が湧きました。

それは、

何か他に考え事があるとき、心配事、嫌なこと。悪いことばかりではなく良いほうでも、期待すること、別のことにワクワクしているとき。本を読んでいると、気づくと数ページ進んでいたのに意味はまったく入ってこなかった、なんてことがあります。

これが例えば私の場合、ボクシングなり、武術なり、絵を描くことだったりした場合だと、上の空になるようなことはないと思うのです、少なくとも自分の記憶のなかでは。

もっともこれは本にもよるかも知れません。逆に電車の中で本に夢中になりすぎて、降りる駅を通り過ぎてしまった経験もあります。では、まったく集中できないような状態で通常であれば夢中になる本を読もうとしたらどうなるでしょうか。考えてみてもちょっと浮かびません。やはり本に集中するのは難しいだろうと思いますが、一度入ってしまえば、とも思います。

読書がなにより好きなことなら、好きな人なら集中してしまうのかな。

我思う、
読書がというよりは、その本が好きか嫌いかによることが大きいのでしょう。好きな人、嫌いなヤツ。馬が合うひと、合わない人。そういった感情に似ている、ということに落ち着きました。

チャンチャン

小学校一年生の国語の教科書、少女の挿絵に腕が3本あったそうです。1万冊分くらい差換えるらしい。画家が手の位置を修正したさい、1本消し忘れたとかですが、発行元も間違いを見落としたと言っていますが、ほんとに見直しとかしてるのか、あやしく疑ってしまいます。

ある時ファイマンさんは教科書の選定委員をやっていたことがあったそうですが、与えられた教科書にくまなく目を通し、その内容の乏しさに、なんども腹を立てされたらしい。

委員会の会議では自分以外のメンバーが誰も教科書を読んじゃいないこと悟り、というのもメンバーは教科書を採点するのですが、意見交換になるとみんな口を開かない、一人で意見を述べていたら意見を聞かれるばかりになってしまった。つまり読んでないんです、誰も。ひどいのは3冊セットの教科書、3冊目が3冊の中の最高点がついていたらしいのですが、その3冊目は実は出来上がってなくて、全ページ白紙。つまり誰もページを開いてすらいなかったのです。意見を述べるのはファイマンさん一人、そりゃそうです、ちゃんと読んでのはファイマンさんだけなのですから。読んでなければ意見も評価もあったもんじゃありません。

おまけに入札業者からプレゼントやら、接待のオファーがひっきりなしに来て…どこの国でも同じなんですね、保護されたような組織に属している人はまったくダメ、腐ってるヤツばかり。



ファイマンさん考えることが何より好きなんだって。

Hit lionhundred


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